20130831

市来家。

あれから、まだ高岡町には行けていません。ただ、龍馬さんが高岡町を本当に訪れていたとして、理由は何なのか・・・

高岡町には市来家という家がありました。市来家の門も史跡になっています。
この家は江戸に出て島田虎之助の門下生になり、帰郷して高岡郷で道場を開いていたようです。
なので江戸でお友達になってそこをたずねた...という説も教えていただきました。
うん。龍馬さんならあるかも←友達でもないのにわかるのか(笑)
そんなお話だったら良いなあと思いつつ。確かに石碑が建っているところと市来家は近いです。だけど、お友達ならなぜそのお家に泊まらなかったのかなあとも思ったり。

で、この間、高岡町の図書館にて高岡町人物誌みたいなものを読みました。市来家のことももちろん書いてあり、そこに「相良勇助」という人が出てきました。この人の説明に「高岡屈指の剣豪市来正之丞政賢の二男で市来正太の弟」ということが書かれていました。

ん????「市来正之丞」?どっかで聞いたな・・・

そ、それって西郷さんの妹さんのダンナさんとは違うよね???斉彬さんの側近の。

インターネットで調べるのには限界がありますが、ある程度わかりました。
いみなが似てるけど違うし、調べたら、息子さんたちの名前も違う。

斉彬さん亡き後、左遷されたって書いてあったんだけど、その後どうなったのかが知りたい。高岡郷に引越ししたとかじゃないよね?そしたらつながるんだけど・・・

なんて一人で考えて少しドキドキ・・・

もし同一人物なら、

西郷さんが「おいの義理の弟やき、寄ってみてつかあさい」とか言ったのかな・・・って土佐弁やないか!違う違う。

「おいの義理の弟がおっで、寄っみっくいやん」とか言ったのかな・・・(笑)

なんて勝手な妄想を重ねてます。

多分同姓同名なだけだと思うけど、150年位前のことに思いを馳せることが楽しいです。

正倉院展の写経のお仕事の人たちの巻紙を見たときも1300年前も人間は感じることはあんまり変わらんとじゃー!と思って、うれしかった。昔はお米と野菜のお給料であったみたいですが、一文字書き損じたら、いくら減給とか書いてあるんですよ。

それに出土した木簡には平城宮にお勤めしている人が、配給のお昼がまずいから改善してくれとか、有給をくださいとかかいてあるって奈良文の方の本で知り、それを知ってから正倉院展を見に行くと、感じ方が変わりました。


龍馬さんがほんとに来ていたらうれしいなあ。


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